今日の午後、〝グレーゾーン〟でビジネスをするA氏から電話がきた。
「ある案件でヤクザとモメてたんですが、向谷さんの本を読んで応対したら、うまくいきました」
そう言ってカラカラと笑った。
拙著で似たようなシチュエーションの箇所を拾い読みし、その〝交渉術〟を実行したのだと言うわけだ。
ウソのような、ホントの話である。
だが実を言うと、A氏が用いた〝交渉術〟は、A氏を例にとり、私がハウツーとしてまとめたものだった。
つまりA氏は、自分で壁にボールを投げたことを忘れ、跳ね返ってきたそれをキャッチして、
「おっ、ボールを得した!」
と喜んでいるわけである。
ことほど左様に、人間は「自分の能力」に気がつかないものだ。
いかに才能があろうとも、
「キミには、これほど素晴らしい才能があるんだよ」
と教え、引き出してくれる人と環境がなければ、それは宝の持ち腐れであり、才能がないのと同じことになるのだ。
ところが、そのことがわからず、「自分の才能」で今日の栄誉をつかんだと錯覚する人の、なんと多いことか。
〝朝青龍事件〟の真相は知らない。
だが朝青龍は、「相撲と、相撲ファン」があったればこそ、今日の富と栄誉を得た。朝青龍という〝タネ〟は、相撲と相撲ファン――すなわち〝水〟と〝日光〟によって発芽したことは、紛れもない事実なのである。
そこに、朝青龍が思い至るかどうか。
一方、相撲協会は、朝青龍という優秀な〝タネ〟があったからこそ、相撲人気という果実をつけたのだ。そして何より、相撲ファンという〝養分〟によって花を咲かせているのだ。
そこに、協会が思い至るかどうか……。
いや、人ごとではない。
私だって、周囲の人々に支えられて生きているにもかかわらず、ややもすれば感謝の気持ちを忘れてしまう。
それを思えば、若い朝青龍にそれを求めるのは無理なことなのかもしれない。
いや、考えてみれば、そもそも「横綱の品格」とはいったい何なんだろう。
亀田ファミリーと朝青龍は、私には同じように見えるのである。
グレーゾーンのA氏から電話をもらって、朝青龍のことを、ふと思った次第。
朝青龍と亀田ファミリーは、どこが違う?
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