歳時記

「ウソも方便」は、どこまで許されるか

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「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 これは、お釈迦様の教えだ。
 
 ところが一方で、「ウソも方便」という言葉もある。
「キミは、僕が嫌いかね」
 上司に訊かれて、
「はい」
 と、正直に答えたのでは、お釈迦様には誉められるかもしれないが、上司の心は傷つき、答えた部下の会社人生は、これで終わる。
「いえ、尊敬しています」
 と、ウソをつけば、お釈迦様の教えには反するが、上司は喜び、答えた部下も前途に光明で、誰も傷つかない。
 ウソは悪いことではあるが、人間社会にとって〝必要悪〟でもあることもまた事実なのだ。
 隠し事も同じなのだ。
 たとえば契約を取るため、上司が嫌っている人間の世話になったとする。そのことを明かせば、上司は不愉快になるだろうし、せっかくの手柄もフイになる。
 黙っていればバレる心配はない。
(だったら、黙ってよ)
 ということになる。
 隠し事とは、消極的なウソのことであり、こうしてみると、ウソや隠し事のすべてが悪いというわけではなさそうだが、それでは、なぜお釈迦様は、
「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 と言うのだろうか。
 それは、たぶん、
「ウソをついたり、隠し事をしたりしなければ、壊れてしまう人間関係や、状況に身をおいてはならない」
 ということではないだろうか。
 白を「白」、黒を「黒」と答えて、なんのわだかまりもない人間関係を築く――これが理想であり、その理想を前提にするから、
「隠し事をする人を卑しい人と知れ」
 ということになるのだと私は考える。
 だが現実には、ウソも確かに方便である。
 図らずもつくウソもあるだろう。
 だが、そのウソが許されるのは、「自分のためにつくウソ」ではなく、「相手のためにつくウソ」でなくてはならない。自分のためにつくウソは「騙し」であり、相手のためにつくウソは「思いやり」なのである。
 不二家から社会保険庁、ミートホープ社……etc。彼らのウソは「騙し」であったがゆえに卑しく、社会から糾弾されるのである。
 

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