歳時記

「忙=心が滅ぶ」を論じる

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 鈴虫が鳴いているのに気がついたのは数日前のことだった。
 残暑だ真夏日だと言っているうちに、季節はいつの間にかそっと忍び寄り、時の移ろいの早さに、何とも無常を感じる今日このごろである。
 8月は、仏教セミナーや空手の合宿、それに溜まった原稿が追い打ちをかけ、このブログは2週間ぶりとなった。
「書かなきゃ、書かなきゃ」
 と、追われる心を「キャー、キャー病」と言い、これは精神状態によくないので、ブログのことは忘れることにしていた。
 ついでながら、
「○○せねばならない」
 と追われる心を、「ネバネバ病」と言い、
「どうして私ばっかりが……」
 と、不幸感に追われる心を「ばっかり病」と言う。
 まっ、それはさておき、今朝、一週間ぶりに畑に出かけた。
 いつものように5時前に起きたが、曇っていたせいもあってか、窓の外は薄暗かった。鈴虫の鳴き声だけでなく、ここにも季節の移ろいがあった。
 数分遅れて鳴り始めた目覚まし時計を止めて、ふと思った。
(「時間」て、いったい何だろうか……)
 私も、あれやこれやと多忙で、スケジュール帳なしには日々が送れない。
 だが、考えてみれば、手帳に記載された「月・日・時」は、私たちが便宜的に決めた区切りであるにもかかわらず、それをあたかも「時間」や「季節」だと勘違いしているのではあるまいか――。ふと、そう思ったのである。
「9月だから秋」なのではなく、「涼しくなってきたら秋」なのだ。「5時だから朝」ではなく、「明るくなってきたから朝」なのだ。
 それにもかかわらず、今朝、私は5時前に起きて、
「朝が明けるのが遅くなったな」
 と思った。
 主客転倒――「5時=朝」という観念で日々を送る生き方が間違っているということに気づかされた次第。
「忙」という字は、「心が滅ぶ」と書く。
 スケジュール帳と睨めっこの日々に、自分の心が滅ぶのではないかと、ふと思うときがある。もっと、ゆったり生きるべきだろうと反省をしたりもする。
 だが、「忙=心が滅ぶ」も勘違いではないか、と思うようになった。
 忙しいから、心が滅ぶのではない。忙しさによって、人間が決めた「時間」を主軸に物事を見るようになり、主客転倒するから心が滅ぶ。そう思うようになったのである。
 もし「忙=心が滅ぶ」であるなら、「暇=心が栄える」となるが、そうはならないことを、私たちは経験で知っている。「小人閑居して不善をなす」とも言うではないか。
 忙しくてもいい。
 暇でもいい。
 要は、「時間」をどうとらえるか、という主体性の問題ではないか。畑の草むしりをしながら、そんなことを考えた。
 

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