「価値」に「絶対値」はない――これが私の考え方である。
たとえば、鯨肉(げいにく)。
私が子供のころは牛肉が高くて、鯨肉(げいにく)を〝代食〟していた。
ところが、いまはどうか。
鯨肉、高価ですね。周知のように、捕鯨禁止の国際世論のなかでクジラの漁獲量が減ったからである。
鰊(ニシン)にしても、昔は「猫またぎ」と呼ばれた。大漁で猫も食い飽き、見向きもしなくなったからである。
それがいまはどうか。
炉端焼き店に行けば、しかるべき値段でメニューに載っている。猫が跨いで通るものを、人間サマが金を払って酒のツマミにしているというわけだ。
食べ物だけではない。
たとえば、ノルマを課せられた営業職は厳しい。成績があがらないときは、つらくて会社を辞めようかと思う。しかし、達成したときの高揚感たるや、病みつきになるほどの快感だと言う。
鯨肉も鰊も営業職も、その価値は「絶対値」ではなく「相対値」なのだ。鯨と鰊は量的な相対値、営業職はノルマという質的な相対値であり、この質的な相対値を「付加価値」と言う。
そして付加価値は、難易度に比例するのだ。
たとえば営業職。上司から「1ヶ月10台の成約を取れ!」とノルマを課せられる場合と、「1台でも2台でもいいから頑張ってくれ」と言われる場合を比較すればわかる。厳しいノルマを課せられたほうに、達成したときの喜びは大きい。同じ営業職でありながら、ノルマという難易度が高くなることによって、付加価値を持ったからである。
一部ウラ社会の人たちは、付加価値のことを、いみじくも「値打ちをつける」という言い方をするが、難易度――すなわちハードルをわざと高くすることによって、彼らは〝値打ち〟をつけるのだ。
「こらッ、オシマエは、オノレの身体じゃ!」
ガツンと脅し、ハードルをうんと高くしておいて、金銭解決を落としどころにすれば、
(ああ、助かった)
と、相手は感謝である。
ところが、相手のことをおもんばかってハードルを低く設定すると、どうなるか。
「しゃあない。ゼニで勘弁したろやないか」
「ありがとうございました」
とは言わない。
(チェ、ゼニ取られてもうた)
不満タラタラとなる。
本当は感謝すべきことであっても、そうは思わないのである。
この人間心理を、「易(やす)きものに価値なし」と言うのだ。
値打ちをつけるなど、いやらしい駆け引きだが、その駆け引きによって、人間は感謝もすれば、毒づきもする。良くも悪くも、それが人間なのである。
易(やす)きものに価値なし
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