ねずみ小僧次郎吉と、石川五右衛門――。
大泥棒の双璧である。
だが、同じ泥棒でも、後世の評価は百八十度違う。
五右衛門は、私腹を肥やすために泥棒をしたのだから、正統派のワルで、
「あんな奴、釜ゆでになっていい気味だ」
と世間は冷ややかなのに対して、次郎吉は「義賊」と呼ばれ、喝采を送った。ご存じのように、次郎吉は悪徳商人や悪代官から財産を盗んで、貧しい人の家に投げ込んで歩いたからである。異説はあるが、真偽は別として、泥棒をして誉められたのは次郎吉くらいのものだろう。
だが、次郎吉をヒーローにしたのは、その所業もさることながら、「義賊」というネーミングにあるのではないか。「盗人・ねずみ小僧」と「義賊・ねずみ小僧」とでは、イメージがまるっきり変わってくる。すなわち「賊」に「義」を冠することで、泥棒が正義の使者になったというわけである。
ねずみ小僧を持ち出したのは、ほかでもない。同じ泥棒でも、視点をかえれば正義になるように、人生もまた、ちょっと視点を変えることで正反対に見えるということを言いたかったのである。
このことを教えたのが、
《心暗きときは、すなわち偶(あ)うところことごとく禍(わざわ)いなり。眼(まなこ)明らかなれば途(みち)にふれてみな宝なり》
という空海の言葉だ。
意味は、「心が暗ければみな暗く見え、心が明るければ、たとえ石ころでも宝石に見える」といったもので、「視点」――すなわち、この世のすべてのものは、見方によって瓦礫にもなれば宝石にもなるということなのである。
これは生き方にも、ビジネスにも当てはまる。
たとえば、靴のセールスマンが南方の島に営業に行ったところ、現地は裸足の生活だったとする。
これを見て、
「靴を売るのは無理だ」
と、あきらめるか、
「やった! 誰も靴を履いていないから、ビジネスチャンスだ!」
と勇んで営業を始めるか。
あるいは、会社をリストラされたとする。
「お先、真っ暗」
と悲観するか、
「天から授かった新たなチャンスだ」
とポジティブにとらえるかで、人生はまるっきり違ったものになってくるである。
大泥棒であるはずの「ねずみ小僧」だって、「義賊」というキャッチフレーズをつけることによってヒーローになったではないか。それを思えば、我が人生を幸せと感じることなど、いともたやすいことなのである。
視点を変えれば、瓦礫も宝に変ずる
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