歳時記

元気づけるなら「励まし」より「同情」

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 みのもんた氏が、脊柱管狭窄症を手術で克服し、以前に増してテレビで活躍している。
 ご同慶の至りである。
 
 なぜなら、私も脊柱管狭窄症であるからだ。
 発症は一年前。劇団四季の『ライオンキング』を見に行った帰途、ヒザが痛くなって歩けなくなり、カミさんの肩につかまって休み休み、牛の歩みで駐車場にたどり着いたという次第。
 診察の結果、脊柱管狭窄によって神経が圧迫され、それが痛みとなってヒザに出てきているということだった。ちょうど琉球古武術の稽古で無理をした時期でもあり、投げ技で床に飛び、背中を酷使したのが悪かったのかもしれない。
 背骨に神経根ブロック注射を3回して、何とか痛みを抑えているが、昨年は脊柱管狭窄症と言っても、周囲は「……?」。
 それが、みの氏のおかげ(?)で、「ああ、みのもんたが手術したやつね」と、話が通りやすくなった。
 ただし、みの氏が術後、元気なものだから、「あっ、そう。手術したら?」と私の周囲は気軽に口にするようになった。
「背骨だぜ。ヤバイよ」
 私が言うと、
「だけど、みのもんた、元気じゃん」
 と取り合わない。
 このとき、私は思った。
 励ますつもりで言ってくれているのだろうが、病人としては、「大丈夫だよ」と言われたのでは面白くないのだ。
「大丈夫? ねっ、大丈夫?」
 と心配をして欲しいのだ。
「励まし」より「同情」して欲しいである。
 病人だけではない。
 苦労している人も、不幸のどん底にある人も、同じではないか。
「大丈夫だよ」
 と励まされれば、
「あんたは気安く言うけど、大変なんだから」
 と反発心が起こる。
「つらいだろうね」
 と同情されれば、
「そんなことない。頑張るよ」
 と笑顔を見せる。
 ここなのだ。
 私たちは、よかれと思って励ますが、当事者はノーサンキュー。善意の誤解であり、私たちはそうと知らず、相手を傷つけているのではないか。
「励まし」より「同情」――。 みのもんた氏をテレビで見ながら、同病の私は、そんなことを思った次第である。

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