『たとえ金貨の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない』
釈迦の言葉だ。
いま釈迦の言葉について調べているのだが、この一語に引っかかった。
「人間の欲求には際限がなく、決して現状に満足することがない」
という意味で、
(なるほど、釈迦はいいことを言うな)
と感心ししつも、
(しかし)
と、いまひとつ納得しないのである。
なぜなら、
(満足せずとも、金貨の雨を降らせてくれればいいのに)
と、そう思ってしまうのだ。
十万円でも、百万円でも、千万円でも満たされないなら、千万円もらったほうがいいに決まっているではないか。
だが、釈迦ともあろうお方が、そんな底の浅いことを言うはずがない。
釈迦の真意を考えているうちに、ハタとヒザを叩いた。
釈迦は、
「金貨の雨が降れば降るほど、それに比例して欲望に苛(さいな)まれていく」
ということを教えているのではないか。
『富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が乾いてくる』
とは、ドイツの哲学者・ショーペンハウエルの言葉だが、釈迦はこのことをさとしているに違いないと考えたのである。
これなら、私にも理解できる。
金貨の雨が降れば降るほど、欲望に苦しむということになれば、
(満足しなくてもいいから、金貨の雨を降らせてくれればいいのに)
という不遜な願いは成立せず、
「もう金貨は結構だ!」
と悲鳴をあげることになるだろう。
だが、ここで再び、
(しかし)
という思いがよぎる。
「金貨の雨が降れば、なぜ欲望に苦しむのか」
ということである。
で、こんなことを考えてみた。
たとえば、お茶漬けしか食べたことのない人は、ステーキを食べたいとは思わない。
ところが、ステーキというものを食べたとする。
すると、どうか。
お茶漬けだけの生活に嫌気がさし、
(ステーキを食べたいな)
と、欲望がひとつ増える。
つぎにフォアグラを食べれば、
(ああ、ステーキが食べたい、フォアグラが食べたい)
と、欲望は「拡大再生産」をしていって、
(あれが欲しい、これが欲しい)
と欲望に苛(さいな)まれるというわけである。
以上の考察から、
「幸せとは、金貨の雨に一滴も濡らされないことにあり」
という結論に達した。
富も、名誉も、何もかも、一切のものに無縁の生活である。
それが無理なら、できるたけ無縁の生活を心がける。
食べ物にたとえれば、お茶漬けだけにして、他のものを食べないのだ。
ステーキを食べたことがなければ、決して欲しくはならない。
これぞ、幸せの極地ではないか。
できるかどうかは別として、理屈としてはそうなるのだ。
欲望は「拡大再生産」する
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