知人の知人が大病になった。
昨年は、経営していた会社を倒産させている。
ツイていないのである。
だが、彼を知る人間は誰も同情しない。
彼は「他人の不幸は自分の幸福」と考えるタイプで、他人を蹴落とすのが大好きなのだ。
だから同情されないというわけである。
私は愚妻を諭(さと)す好機だと思った。
「おい、よく聞け」
夕食の支度をしている愚妻に告げた。
「人間には2種類あるのだ。人を踏み台にして生きようとする人間と、人の踏み台になって生きる人間の2種類だ」
「それがどうかしたの。忙しいんだから早く言って」
バチ当たりが、私が人生論を始めると決まって醒めた口調になるのだ。
だが、僧籍にある私は辛抱強く説く。
「おまえにはわかるまいが、幸福というやつは、人の踏み台になって生きる人間に訪れるのだ」
「テーブルの上を片付けて」
「聞け」
「何よ」
「だから、おまえも踏み台になって生きてはどうかと言っておるのだ」
「ちょっと!」
愚妻が般若(はんにゃ)の形相で振り返った。
「結婚して36年。まだ、あなたの踏み台でいろというの」
愚妻が私の踏み台であったなど、いまもって信じられない思いで、いまこのブログを書いたのである。
「踏み台」になる人
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