パワハラは絶対に容認されない時代になった。
「パワハラ」と「指導」の区別に戸惑うのは昔人間で、怒鳴りつけるなど相手の人格に対する配慮が欠けていれば、それはパワハラなのである。
私が週刊誌記者時代のこと。
初めて書いた原稿を、
「こんなの、学生バイトでも書ける」
と言って、デスクが机の上に放り投げた。
頭にきた。
そして、「絶対に見返してやる」と誓った。
あれがなければ、必死で仕事には取り組まなかっただろうと、これは生涯を通して思っていることだ。
だが、これはいまの時代ではパワハラになるのだろうが、釈迦は、
「人を見て法を説け」
と言った。
含蓄のある言葉である。
連日、トランプ大統領のニュースが流れている。
トランプ大統領の一言一句に全世界が反応しているが、彼の発言はすべて「恫喝」である。
アメリカという超大国の力を背景とする「パワハラ」なのだ。
しかるに、どこの国も識者も、
「パワハラだ!」
と糾弾しない。
パワーも突き抜ければ、批判の対象にならないということか。
「木を見て森を見ざる」という言葉がある。
私たちは、個々の「木」を見てパワハラだと糾弾するが、「森」を見ようとしない。
これはパワハラに限らず、すべての事象について言えるのではないか。
考えさせられることである。