ここ一ヶ月、私が出仕したご葬儀のうち、入浴中にお亡くなりになった方が3人いらっしゃる。
ご高齢の方たちだが、冬場の入浴が危険であることはご家族も承知で、ストーブを炊くなどして脱衣所を暖かくし、ヒートショックを起こさないよう気をつけていたとおっしやる。
それでも事故は起こる。
我が家も廊下や脱衣所は暖かくし、ヒートショックに備えてはいるが、どれほどの効果があるのか。
「入浴には気をつけよ」
愚妻に厳命するが、
「私は大丈夫」
意に介さない。
「なぜだ」
「私が大丈夫だと言えば、大丈夫なのよ」
「論拠は」
「私が大丈夫だと言っているから」
話にならないのである。
だが、この自信はいったいどこから来るのか。
あきれつつも、
(いや、この自信こそ「自信の本質」かもしれない)
と思い直した。
と言うのも、私の「自信」に対する持論は、
「自信は湧いてくるものではなく、持つものである」
ということであるからだ。
「ムクムクと自信が湧いてくる」
ということはあり得ず、自己暗示をかけ、自分の意志で「持つもの」なのだ。
しかるに、多くの人は、自信は湧いてくるものだと思っている。
湧いてこないものを待つのだから、いつまでたっても不安に苦しめられるのは道理というものである。
自信はなくてよい。
持てばいい。
論拠など不要なのだ。
こうしてみると、
「私が大丈夫だと言えば、大丈夫なのよ」
という愚妻の一言は、ひょっとして「人生の至言」かもしれないと、改めて思ったのである。