歳時記

マスクと「自助」

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一昨日は、打ち合わせで新宿のホテルへ出かけた。
著名なホテルだが、ロビーも、待ち合わせのラウンジもガラガラである。

「まん防」の効果かどうか知らないが、見事なものだと感心しつつ、ラウンジに入ろうとしてマスクをしていないことに気がついた。
カバンからマスクを取り出してすぐにかけた。

私はしょっちゅうマスクをし忘れる。
だからカバンはもちろんセカンドバック、巾着、さらにクルマの中に常にマスクを入れて用心している。

それはいい。
問題は愚妻である。

私が出かけるとき、愚妻は必ず玄関で見送る。
たぶん、私のニラむところでは気遣いではなく、私が出かけたらすぐにカギをかけるからだろう。
実際、ドアが締まると、カチャリと音がする。

それはいい。

だが玄関先で、
「忘れ物はないの?」
必ず訊くのだ。

おかしいではないか。
なぜ、見送っていて、私がマスクをし忘れていることに気がつかないのか。

私が毎度マスクをし忘れるということは、愚妻は毎度「忘れ物はないの?」と訊きつつ、毎度、何にも見ていないことになる。
こういうのを「おざなり」と言うのだ。

一昨日も新宿から帰宅して、愚妻にそのことを厳しく叱責すると、
「どうして忘れるのよ。自分のことでしょ」
意に介さない。

「バカ者。わしを見送っていて、なぜマスク忘れに気がつかないのだ」
「そんなの見てないわよ」

議論にすらならない。

夫婦といえども、時代はまさに「自助」であることをマスクは教えるのだ。

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