形見とはモノに仮託した「人生」のことだ。
文豪の万年筆、有名野球選手のバットやグローブ、あるいは父の着物、母の指輪。
「かく生き、かく在った」という証であり、その価値は名利に比例する。
同じマフラー一本であっても、名もない市井の人より、功成り名を遂げた人の形見をありがたがる。
だから私たちは「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という生き方を是としてきた。
だが、その生き方は本当に正しいのだろうか。
良寛は、形見が欲しいと言われて、こんな歌を詠む。
「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす秋はもみぢ葉」
意味は、
「私には形見としてお分けするものは何もありませんが、春になって桜の花が咲けば、それは私の形見だと思ってください。夏にホトトギスが鳴いたなら、それは私の形見だと思ってください。秋にもみじが美しく紅葉したなら、それは私の形見だと思ってください」
その心は、
「貧しくとも、私のように自然のなかに心を遊ばせてごらんなさい。そこには無上の喜びがありますよ」
と読み解ける。
「形見を遺さない人生」
「形見の残らない人生」
苦の元凶は「遺す」にある。