石川啄木『一握の砂』に次の句がある。
『鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも』
見すぼらしい男が向こうから歩いてくるな、と思ったら、鏡屋の鏡に写っていた自分の姿だったという驚きを読んだもの。
「驚き」は「愕然」と同義語である。
普段、私たちは鏡に写る自分を見ているが、これは「自分の目」で見た「自分の姿」
見馴れた顔だから驚きはない。
つまり「主観」
ところが啄木はこのとき、はからずも「世間の目」で「自分の姿」を見た。
つまり「客観」
「なんと、自分は世間の目にこんなふうに見られているのか」
愕然とする。
ことほど左様に自分の姿でさえ、「主観」と「客観」では天地の差がある。
「ちょっと、ティッシュはちゃんと屑籠に捨ててよね!」
愚妻が年始から私のだらしなさをプリプリ怒っている。
これは「妻の目」で亭主を見ているからであろう。
「主観」と「客観」と視点の違いを説明し、
「おい、わしを客観的に見てみるがいい。素晴らしくあっても、決してだらしなくはないはずだ」
注意をうながしたが、聞く耳は持たず。
「私を丸めこもうと思ってもだめよ!」
火に油になった。
人間関係は何と難儀なものであることか。
夫婦でさえ、こうなのだ。
いわんや、他人おや。