閃いた文言は、閃きゆえに一瞬で消え去る。
まさに稲妻の如し。
消え去ったあとでは、絶対に思い出せない。
だから、私はその場でメモにとる。
(あとで)
と、横着すると後悔する。
何気ない一言の閃きが、著書のモチーフになることもあるのだ。
と言いつつ、なぜかここ一、二年、メモをとらなくなった。
人生の残り時間を考えると、
(いまさらメモをとってもなあ)
そんな思いがあるのだろうか。
いまパソコンのファイルを整理していて、メモファイルに気づき、ついつい読んでみる。
「昨日と変わらぬ今日を過ごし、今日と変わらぬ明日を迎える。けれど来し方をふり返ると、思いもつかぬ人生の曲折に唖然とさせられる」
「長生きをしていると、若さを失った分だけ思い出が増えていく」
「出会うのに理由はない。別れるときに理由がある」
「泳げない人間は溺れ死んでしまうが、泳げる者は死のうと思っても浮いてしまう。どっちも難儀なことである」
「不幸はいつもモミ手でやってくる」
「この世に不必要なものは何ひとつとしてない。悪でさえ、善のために存在しているではないか」
こんなフレーズがたくさん書きつけてある。
惜しむらくは、書きつけた年月日を入れておけばよかった。
その時々で、自分が何を考えていたかがわかるではないか。
今朝、九月に高校の同期会が久しぶりに郷里で開かれると、友人から電話をもらった。
その日はかねて外せない予定が入っていて出席は難しい。
同期会を欠席するとなれば初めてのことだ。
思い出話をしたり、懐かしがったりもしてみたいが、一方で、そうしたことを楽しみに思う自分に反発もある。
「ひたすら前を見て歩く人生を五十代までとすれば、六十代はときどき後ろ振り返る人生で、七十代ともなれば爪先だって遙(はる)か遠くに霞む思い出を懐かしがる」
そんなフレーズがよぎるのだ。