昨日、法事に出仕して、式場に傘を忘れた。
雨が降ったりやんだりだったので、
(こりゃ、帰りに晴れていたら忘れるぞ)
と自戒していたのだが、思ったとおり忘れてしまった。
駐車場を出て気がついたのだが、係りの人に挨拶して帰途につき、すぐ引き返して「傘を忘れました」なんて、みっともないことはできない。
私はそういうところはカッコつけるのだ。
で、帰宅すると、
「ちょっと、傘はどうしたの?」
愚妻が咎める。
「傘? 持って行ったかな?」
「行くとき降ってたじゃないの!」
あとは非難囂々である。
それにしても、私が傘を忘れたなど、よくぞ瞬時にわかるものだと、いましがた日帰り温泉の露天風呂で考えていて、はた気づいた。
私が出かけるときから、
「この人は傘を忘れてくるもしれない」
と、愚妻は警戒しているのだ。
だから帰宅するや、
「傘は?」
という質問になるというわけである。
ひどい女だ。
そう思ったが、別の視点から考えると、「かもしれない」と最悪の事態を想定するのは危機管理の基本ではないか。
傘を持って出れば「忘れるかもしれない」と最悪の事態を想定する。
自然災害でもビジネスでも、常に最悪の事態を念頭に置いておくことが大事とするなら、愚妻は危機対応の王道を行っていることになる。
「なるほど」
と合点しながら、
「しかし」
と思う。
「かもしれない」と最悪の事態を想定していていながら、結果は想定どおり「傘を忘れる」という最悪の事態。
何のことはない。
危機対応でも何でもなく、単に私に信用がないだけではないか。
改めて、露天風呂で気がついたのである。