歳時記

エビデンスの「落とし穴」

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昨夕、道場の仕事部屋から帰宅すると、愚妻がへたりこんでいる。
「どうした」
「家の中の片付けをしていたのよ」

そして、
「スマホを見たら2千歩になっているのよ。すごいと思わない?」
得意になっているのだ。

そこで私は、
「2千歩がどれほどすごいのか、エビデンスを示せ」

コロナ専門家が口にするエビデンス(証拠・根拠)を求めたところが、
「そんなの、わかるわけないじゃないの」

「では、2千歩がすごいのかどうかわからんではないか」
「わからなくても、すごいのよ。こんなに疲れているんだから」

エビデンス論争になったのだが、愚妻は感覚勝負で押してくる。

論争はエビデンスにもとづいてなされるべきだが、ひょっとして私たちは、エビデンスとか客観評価を絶対的な「是」として物事を判断してはいまいか。

「死んだら、お浄土へ行く? エビデンスを示せ」
こういう論議になる。

そのうち、子が親に向かって、
「我が子を愛しているというなら、エビデンスを示せ」
ということになるのだろう。

エビデンスはもちろん大事であるとしても、エビデンスでは示されないものも、この世の中にはたくさんあるのだ。

もっと言えば、エビデンスの落とし穴は、エビデンスのないもの、示すことのできないものを切り捨ててしまうことにある。

人間の意識や行動、価値観そのものが不可解なのだ。

コロナ禍でエビデンスの重要性が指摘されればされるほど、いかにしてエビデンスという価値観の呪縛から自分を解き放つかを、私は考えるのである。

ちなみに、愚妻の歩数だが、ウェブで調べると、主婦は「家事をするだけで3千歩になる」とか。

エビデンスにもとづけば愚妻の2千歩は「家事以下」となるが、本人の感覚では「家事以上」になるのだ。

いや、「私はこんなに働いている」と亭主にアピールしているのかもしれない。

もしそうであるなら、まさにエビデンスでは示されない部分なのだ。

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