熟年離婚が当たり前になった時代。
自分勝手で、ワガママな亭主から解放され、晴れ晴れとした気分で生きていく。
結構なことだと思う一方、葬儀で熟年の未亡人と話していると、自分勝手でワガママなご主人であればあるほど、
「まあ、苦労をかけられました」
と、思い出の一つひとつを懐かしそうに語る。
死別は究極の別れであるのに、晴れ晴れではないのだ。
反対に、「やさしくて、本当にいい人」というご亭主については、多くを語ることがない。
このことに、考えさせられる。
人生も同じで、嫌なことも苦労も、過ぎてしまえば懐かしい思い出に転化するということなのだろう。
だから大いに苦労し、嫌なことを味わうことが結局、晩年の人生を豊かにするということになる。
愚妻が豊かな人生を送るには、このことに気づかねばならない。
だが、聞く耳を持つだろうか。
懸念しながらも一応、話してやると、
「ちょっと、自分を正当化しようと思ってもダメよ」
思ったとおりの言葉が返ってきた。
せっかく私が自分勝手に振るまい、ワガママに生きているというのに、これが豊かなる人生の「因」になることがわからないのだ。
猫に小判、愚妻に〝賢夫〟ということか。
今朝も、日帰り温泉。
年の瀬に向かって多用多忙で原稿が進まず、サウナでかく汗は「冷や汗」なのである。