声が嗄(か)れるという経験を初めてした。
昨日、法要で読経をしていて、途中で文字どおり声が嗄れていくのだ。
何とか乗り切ったが、さすがに汗が噴き出た。
実はその前夜、稽古で夕方から大声を出していた。
9月23日は当道場の審査会だし、10月14日は市民大会も控えている。
下手なのはいっこうに構わないのだが、目標に向かって努力するという姿勢が足りない。
だが、悪いのは子供たちではない。
人間は易きに流れる。
つまり、努力と忍耐の欠如は、指導者に責任があるということになる。
そう反省した私は、大声を張り上げて稽古の指導をしたという次第。
ところが2時間もすればノドが痛くなってきた。
ガラガラ声である。
「どうしたのよ、その声」
帰宅したら愚妻が眉をひそめる。
「指導の証だ」
「どうして思いつきでそんなことをするのよ」
愚妻が文句を言うが、私は相手にしなかった。
ところが翌日、読経で声が嗄れた。
実はその数日前、保護司の研修会で別宗派の住職が、
「私たちは声を大事にしなけばいけません」
と言っていた言葉を思いだし、なるほどと合点。
成功から学ぶことより、失敗から学ぶことのほうがはるかに多いことに、改めて気づいたのである。