昨日は満中陰法要(四十九日)で、都下某市の施主宅へおうかがいした。
近くの駐車場にクルマを停めて降りると、立ち話をしていた年配の女性二人が、私に会釈してくださった。
私も挨拶を返しながら、会釈の相手はこの「私」ではなく、「僧侶の格好」に対してであることを考えると、浅学非才としては心中複雑であった。
格好だけでなく、ホンモノにならねばと、気を引き締めた次第。
四十九日というのは微妙な期間だ。
亡くなって一ヶ月余り。
「悲しみ」と「これから」が微妙に絡み合っているからだろう。
「悲しみ」に気持ちが振れれば涙を流し、「これから」に思いが振れれば現実に目が向く。
「悲しみ」と「これから」の両方が絡み合い、とどめもなく気持ちが振れ続けるのが四十九日ということか。
これまで何度も四十九日の法要を勤めてきて、そんなことを思うである。
法務を通して実感するのは、机上で学ぶ仏法と、現実世界を生きることの価値観は同じではないということだ。
現実世界において仏法を説くのか、仏法において現実世界を説くのかという問題は常につきまとう。
だが、忘れてはいけないのは、仏法は書物で学ぶことはできるが、現実世界は現実世界においてしか学ぶことはできないということである。
これは仏法に限らず、すべてのことに言えるのではないか。
何事も現場を踏むことだ。
理屈を学び、現場を踏み、理屈に立ち返り、そして再び現場に出て行く。
IT時代のいまこそ、リアルという現場をどれだけ踏めるか。
坊主としてはもちろん、物書きとしても、このことは大事だ。
法事の帰途、そんなことを考えたのである。