盤石と言われた安倍政権が火だるま。
戦争が懸念された米朝関係が一転して首脳会談。
収束に向かったはずの森友問題が、文書改竄問題でまさかの再爆発。
一寸先は闇である。
世のなかは動いている。
私が感心するのは、一寸先は闇であるにもかかわらず、テレビで堂々の発言をするコメンテーター諸氏である。
「米国よる先制攻撃の可能性はじゅうぶんにあります」
と煽ったその口で、米朝首脳会談に流れが傾くや、
「さて、どこまでトランプ大統領が譲歩するか、これは目が離せません」
と、たちまち軌道修正である。
彼らを見ていてつくづく思うのは、有能なコメンテーターとは「アジテーター」であるということだ。
たとえば、
「米朝の戦争はありますかね?」
と司会者に振られたとき。
「さあ、あるかもしれないし、ないかもしれないし、わかりませんねぇ」
とコメントしたのでは、視聴者は面白くない。
ここは語気を強めて、
「米軍による先制攻撃もあり得ます!」
「北朝鮮はグァムを核攻撃するかもしれません!」
ガンガン煽れば、視聴者は引きこまれる。
ポイントは、コメントにつけ加える一言。
「という可能性も排除できない」
「可能性は決してゼロではない」
「何が起こっても不思議ではない」
「もし、そうであるとするなら」
こうした前提条件をつければ、何を言っても言い放題で、人気コメンテーターは「アジテーター」というわけである。
私も夕刊紙や雑誌からコメントを求められることがある。
かつては、自分が得手としない分野のコメントを求められるのは気が進まなかったが、そのうちコメンテーターかアジテーターの役目だとわかってくると、何でもござれになった。
つまり、「私はこう思う」という「私見」には正解はないということ。
ところが、正解を探して「公見」を言おうとする。
だから、どっちつかずのコメントになる。
言いたいことを、言いたいように言えばいいのだ。
これはコメントに限らず、生き方も含めてすべてのことについて言えるのではないか。
我が人生において、最高のアジテーターになる。
自分を鼓舞するとは、つまりはそういうことではないかと、つらつらと脈絡なく考えるのである。
人生のアジテーター
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