歳時記

「納得して死ぬ」ということ

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 先夜、編集者と打ち合わせをしていて、
「納得して死ぬ」
 ということが話題になった。
 帰宅して、愚妻にそのことを話してみると、
「納得なんかするわけないでしょ」
 とバッサリ。
「ごもっとも」
 と言うよりほかはあるまい。
 納得して死ぬには、二つが考えられる。
 好き勝手に生き、しかもハッピーライフで、
「もう思い残すことはない」
 という人。
 でも、人間は満足することができない存在だから、「思い残すことはない」とはなるまい。
 故人になられた某氏が、末期ガンを宣告されたとき、
「人生の楽しみをやりつくしたから、思い残すことはないでしょう」
 と私が軽口を叩くと、
「バカ者! 人生の楽しみを知り尽くしているから、死にたくないのだ」
 と怒られたものだ。
 もう一方の「納得して死ぬ」は、諦観である。
 人間は死から逃れられないということを悟り、受け入れることによる納得である。
 とは言え、これもそう簡単に納得はできるわけがない。
 そこで浄土真宗は、
「死ぬのではなく、浄土へ新しく生まれ変わる」
 と説く。
 死を終わりと考えるのではなく、新たな始まりととらえることによって、「納得の死」とするわけだ。
 論じれば長くなるので、そんな話をかいつまんで愚妻にしてみたところ、
「それで、あなたは死ぬことに納得したわけ?」
 テレビの韓流ドラマに視線を吸えたまま、こともなげに核心をつくのである。
 そうだ。
 納得しようがしまいが、死は確実にやってくる。
 私たちには選択の権限も余地もない。
 それだけのことではないか。
 ひょっとして愚妻は、「納得」を超越して生きているのではないか。
 こういう人間を「生命力が旺盛」と言うのだろうと、これは腑に落ちて「納得」した次第である。

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