今日は一転、ポカポカ陽気だが、あと2カ月足らずで師走である。
冬を意識するこの季節になると、なぜか良寛が気になってくる。
良寛が晩年を暮らした「五合庵」という庵が、越後の雪深い山中にあるからだろうか。
『良寛 清貧に生きる言葉』を執筆するために、この地を訪れたのは、はるか以前のような気がしているが、出版年月を見ると2009年4月になっている。
とすると、「五合庵」を訪ねたのは、つい2年半ほど前ということになる。
月日が経つのは早いと言いながら、意外と「遅い」ものだと、妙な感慨にひたるのである。
私がお気に入りの良寛の詩は、次のものだ。
少年より 父を捨てて 他国に走り
辛苦 虎を画いて 猫にもならず
人あって もし 箇中の意を問わば
これは これ 従来の栄蔵生
栄蔵というのは良寛の俗名で、詩の意味は、
「若い時に父のもとを離れ、他国におもむいて仏道の修行に励んだが、苦労のかいもなく、虎を画いたつもりが猫にも似ないように、先師の片端さえ学び取ることができなかった。もし人が、その意味を尋ねたならば、ただ昔のままの栄蔵といった若いころと同じだと、答えよう」
親不孝を悔いる良寛の思い、と解釈されてもいるが、私は別の意味を読み取る。
すなわちそれは、
「虎になろうとして猫にさえなれなかったが、それでもいいではないか」
という達観の境地である。
「親不孝も、これまでの苦しい修行もすべて、〝変わらぬ自分〟に気づくためのものであった」
と良寛は言っているのではないだろうか。
「自己肯定」である。
私たちも来し方を振り返れば、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と後悔ばかりだが、
「それはそれでよかったじゃないか」
と言って熟年を迎えたいものだ。
やはり、良寛はいい。
この季節になると「良寛」だ
投稿日: