『今日ほめて 明日悪くいう 人の口泣くも笑うも ウソの世の中』
一休宗純の言葉である。
この言葉の意味について、
「私たちはウソの世のなかを生きているにもかかわらず、そうと知らず、一喜一憂するとは何と愚かなことよ」
と、一休さんが嗤(わら)っているものと思っていた。
だが、最近は違う。
「大いにウソをつきなさい」
と解釈するのである。
「ウソは泥棒の始まり」
と言うがごとく、私たちは「ウソ=悪」とする。
だが、ウソは本当に悪いことなのだろうか。
たとえば、
「私のこと、嫌いですか?」
と、息子のお嫁さんに問われて、
「ええ、大嫌いです」
と答えるお姑さんはいまい。
義父に向かって、
「ずいぶんハゲてきましたね」
と、事実を正直に指摘するお嫁さんもいないだろう。
「社長、私は仕事が大嫌いなんです」
とホンネを口にすれば、真っ先にリストラである。
こうしてみると、ウソは社会生活を送るうえで不可欠のものであることがわかる。言い換えれば、ウソをつかないで生きていける人間は一人としてこの世に存在しないということでもある。
ところが一方で、ウソは道徳的に悪とされる。
矛盾である。
さて、どう折り合いをつけるか。
そこで、ウソに二種類あると考える。
ひとつは、自己の利益のために「人を騙すウソ」
これは、許されざるウソ。
もう一つは「人間関係の潤滑油としてのウソ」だ。
もっと言えば、このウソによって双方の理解が深まり、幸せにつながっていくというウソである。
嫁と姑の例で言えば、
「私のこと、嫌いですか?」
「何を言ってるの。自慢のお嫁さんですよ」
と笑顔で応えればどうだろう。
二人はうんと親密になることだろう。
ウソは人間にとって不可欠の、そして用い方によっては素晴らしいものであるとは、私は独断と偏見で考えるのである。
「ウソつきになれ」
と言うのではなく、
「人間はウソをつかざるを得ない」
という本質を肯定的にとらえ、うまく用いるのが大人の知恵というものではないだろうか。
ところが人間は、加齢につれてウソをつくのがヘタになる。
甲羅を経て、人生の酸いも甘いも噛み分けてきたはずなのに、上手にウソをつくどころか、言わずもがなのホンネを口にして、人間関係をギクシャクさせていく。
一定の年齢に達すれば、「ホンネ」は「憎まれ口」のことなのだ。
円満な人格とは、上手にウソをつける人のことを言うのだと私は思うのだが、これが意外と難しいのだ。
「ウソ」がつい「ホンネ」になってしまい、無用の摩擦を起こしてしまうのである。
『今日ほめて 明日悪くいう 人の口泣くも笑うも ウソの世の中』
という言葉の意味をあれこれ考えながら、
「私も心を鬼にして、たまには愚妻にお世辞を言わねば」
と、反省しきりの今日このごろなのである。
「ウソ」について考える
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