歳時記

「人間は考える葦」の真意

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 今日は九十九里の仕事部屋へ行き、夕方になって近くの温泉健康ランドへ出かけた。
 露天風呂につかっていると、初老の男性が入ってきて、
「陽が長くなったなァ」
 身体を沈めながら長閑(のどか)につぶやき、遠くの空を仰いだ。
(ノンキなこった)
 と、我が身を棚に上げ、
(こういうタイプはウツ病とは無縁だろうな)
 そんなことを思いながら、何となくウツ病のことを考えているうちに、ウツとは何と理不尽な病気だろうと腹が立ってきた。
 ウツになる人は、完璧主義だとか、きまじめだとか、責任が強いとか言われているが、よくよく考えてみると、これらはみな、人間として素晴らしいことではないか。
 きまじめで責任感が強い人がウツになり、チャランポランでノホホンと生きている人間が人生を謳歌するとなれば、これほど理不尽なことはないと思ったのである。
 だが、さらにもっと深く考えてみると、きまじめで責任感が強いことを「善」、チャランポランであることを「悪」とする前提が、果たして正しいかどうか、ということである。
 太古の昔、人間は天気まかせで、その日暮らしをしていた。
 現代の価値観で言えば、チャランポランな日々である。
 ところが、かのパスカルが「人間は考える葦(あし)である」と喝破したごとく、人間には知恵がある。
 だから、
「天気まかせの、その日暮らしをしていてはだめだ。しっかり働いて、食料を蓄えておこうじゃないか」
 と、立ち上がった人間がいただろう。
 これに対して、旧来のチャランポラン派は、
(冗談じゃねぇよ)
 と思いつつも、しっかり働いてくれるなら結構なこと。
「素晴らしい! あんたは勤勉で、マジメで、責任感が強い人だ」
 とか何とかヨイショし、自分は働くふりをしてノンキに暮らした。
 たぶん、こんなことから、きまじめで責任感が強いことが「善」ということなっていったのではあるまいか。
 つまり人間は本来、チャランポランであったものが、「考える葦」であるがゆえに、妙な具合になったというわけである。
 そんなことを露天風呂で考えつつ、私はハタとパスカルの真意に気づいた。
 パスカルは人間の知恵を賛美したのではなく、
「人間は考える葦である。ゆえにウツにならないよう気をつけろ」
 と警告を発していたのである。
 

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