《自由人》とは、仏教から来た言葉だ。
《自》は「みずから」、《由》は「由(よ)る」ということから、
《みずからによる人》と読み、
「煩悩にまみれた〝不自由〟な境涯から解き放たれた人」
という意味である。
もちろん、受け売りである。
毎回そうだが、三日間の集中講義で私が得るのは、そんな枝葉末節のことばかりで、情けなくなる。
いや、こうした勉強にかかわらず、私は何事も〝本線〟からはずれた部分に、いつも目がいく。
いま帰宅の新幹線の車中だが、京都駅のホームに五十代とおぼしき尼さんがいた。
もちろん剃髪である。
だが、ツルツルのピカピカではない。
おそらく剃って、二、三日目のようだ。
その頭部を見ながら、私は尼さんが頭を剃る姿をあれこれ考えてしまうのである。
どんなカミソリを使うのか。
二日に一回なのか、三日に一回なのか、本当は毎日剃っているのだが、風邪でも引いて剃っていないのか。
自分でも、
(くだないことを考えて、しょうもないな)
と思うのだが、そういうことがつい気になってしまうのである。
そう言えば、新幹線を乗る前、浴衣を来た若者がいた。
丈が短く、ツンツルテンで、まるで旅館の浴衣風だが、手にセカンドバックを持っているから、それなりにカッコつけて着てきたのだろう。
私は彼を目で追いながら、彼はどういう気分でその浴衣を着たのだろうか、と考える。
これから、どこへ行くのかと考える。
仕事は何をしているのだろか、と考える。
要するに、どうでもいいことをあれこれ考えてしまうのである。
そんな私は、忙しがっているが、本当はヒマなのではないかと、いま考えながらこのブログを書いている次第。
明日は、保護司の研修会で薬物がテーマだ。
酒井法子の事件が進行中で社会的関心が高い問題だけに、薬物については、きちんと〝本線〟の勉強をしようと、自分に言い聞かせているところである。
私は、本当はヒマなのではないか?
投稿日: