勉強のつもりで仏教関係の本を読んでいるが、これがよくわからないのである。
理解が深まるどころか、ますますわからなくなっていく。
諸行無常、諸法無我……なんて、難しいことを言わなくても、人間はただ「生まれて死んでいく」だけのことではないのか。幸せだ、苦悩だと言っているうちに、人生はエンディングに入っていく。
「たかが人生、されど人生」ではなく、「たかが人生、あっという間の人生」だと、58歳の私は思うのである。
そんなことを考えるのも、たぶん良寛を書いたからだろう。
《善根の蛍は 招けども来らず
煩悩の蚊は 払へども去らず》
良寛は、そう詠んでいる。
世俗の欲望を断ち切り、草庵で絶対自由の極地を得た良寛の句であることを思えば、「悟り」とは何だろうかと考え込んでしまう。
つまり、悟りを得るための「苦行」はどんな意味を持っているのか、ということである。
青年期、壮年期を「苦行」に費やし、一切の欲望を断ち切った解脱の境地を得ることが、そんなに素晴らしいことなのだろうか。
「私はついに悟った」
と言って死んでいくのと、悟りなど得られなくても、欲望の世界で迷いの日々を送りつつ、
「いろいろあったが、過ぎてみりゃ、人生、あっという間よ」
と嘯(うそぶ)いて死んでいくのと、どっちが幸せだろうか。
私のように世俗の垢(あか)にまみれた人間は、〝悟り〟についてさえも「費用対効果」で考えしまうのである。
これは私にとって「本音」であるか、あるいは「逆説」であるのか。
それを見極めるために、仏教の本を読んでいる。
すると、ますますわからなくなる。
(忙しがっているが、私はヒマなのではないか?)
そんな思いがする今日このごろである。
「悟り」と「費用対効果」
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