歳時記

観光地の落書きと「存在証明」

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 我が家にマックというトイプードルがいる。
 毛色が「真っ黒」であることから、「まっくろ」「マック」と名付けた。
 すでに十年を生き、老犬になりつつある。
 そのマックを連れ、気が向いたときに散歩に出かけるのだが、老犬は例によって、電柱など小便をあちこちにひっかけながら歩いていく。
 ご承知のように、マーキングという行為だ。
(本能とはいえ、犬も難儀なことよのう)
 と思っていたら、人間もマーキングすることを知って驚いた。
女子短大生6人のほかにも、大学の男子学生3人が、イタリア・フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の柱に落書きしていたというではないか。
 犬のマーキングは、
「ここはワシの縄張りじゃ」
 というメッセージだが、人間のマーキングは、
「ほれ、このとおり、ここに来ましたぜ」
 という〝存在証明〟のマーキングである。
 ついでに言えば、記念写真も同じで、旅行のスナップ写真は、
「ほれ、このとおりパリに来たわよ」
 というマーキング(存在証明)。
 卒業写真は、
「ほれ、このとおり、学校を出たぜ」
 というマーキング。
 家族の写真は、
「ほれ、このとおり、これがわが家だぜ」
 というマーキング。
 私たちの人生はマーキングと共にあり、写真を眺めて思い出に浸ったり、笑ったり、悲しんだりするのは、「存在」に対する追憶なのである。
 では、なぜ「存在」を追憶したがるのだろうか。
 なぜ「存在証明」というマーキングに、私たちはこだわるのだろうか。
 それはたぶん、いずれ来るであろう「死」に対する無意識の恐れではないだろうか。
 死によって、自分の存在が「無」になるという恐れが「存在証明」に駆り立てているように私は思うのである。
 逆説的に言えば、記念写真や落書きなど、「存在証明」というマーキングにこだわらないということは、死を恐れないということになるのではないだろうか。
 だから、死を自然のこととして受け容れる人間は、記念写真も撮らなければ落書きもしない。
(よし、これからは記念写真など撮らんぞ)
 と思いつつ、その一方で、
(このHPをリニュアルしたら、写真もアップしようかな)
 などと考えている。
 自己矛盾だと反省しつつ、
(しかし脳は、右脳と左脳があって役割が違うと言うしな。矛盾して当然だろう)
 今日も自分に詭弁を弄しつつ、マーキングについて考えた次第。

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