歳時記

善に理屈なく、悪に理屈あり

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 梅雨の晴れ間を狙い、急いで畑へ行った。
 親父がヒマにあかせ、次から次へと野菜の苗を買ってきては植えるので、知人にお借りした畑の面積が次第に増えていって、いまでは百坪を超えてしまっている。
 植えるのは簡単だが、畑も百坪を超えると、難儀するのは雑草である。
 抜いても、刈っても、むしっても、雑草があざ笑うかのようにグングン伸びてきて、畑を覆い尽くそうとする。親父は鼻歌まじりで苗を植え、私は汗を滴(したた)らせながら、ひたすら草引きなのである。
 どこに何が植わっているかもわからず、地面を睨んで〝草削り〟の鍬を打ちこんでいると、ノドが乾いてきた。
 農道に駐めたクルマに水のペットボトルが置いてあるのだが、何しろ百坪超である。
(あそこまで歩いていくのはヤだなァ)
 と思ったとき、ふと、
《渇しても盗泉の水を飲まず》
 という故事が唐突に浮かんだ。
 前にも書いたと思うが、
「畑仕事は無心になれる」
 というのは、私の経験ではウソで、いろんなことが脈絡なく脳裡をかすめては消えていくのだ。
 まっ、「脈絡なくかすめて消える」というところがミソで、拘泥しないことをもって「無心」と言うなら、そうだろう。
 で、盗泉である。
 故事の由来は、ご承知のように、孔子が「盗泉」という所を通ったとき、ノドが渇いていたが、その地名の賤(いや)しさ嫌ってその水を飲まなかった、というものだ。
 ここから転じて、「盗泉」という言葉は、「恥ずべき行い」のたとえとして用いら、「人間は高潔であれ」とする。
(でもなァ。それって正しいことなのかなァ)
 ノドの渇きをこらえつつ、私は首をひねったのである。
 ノドが渇けば、「盗泉」だろうが「奪泉」だろうが、ガブガブ飲めばいいのだ。高潔も結構だが、まずノドの渇きを潤(うるお)すこと。倒れたら元も子もないのだ。
(それに)
 と、私は思う。
《清濁併せ飲む》
 という言葉もあるではないか。
 そんなことを自問自答していると、これまた脈絡なく、
(理屈ってのは、後ろめたいことにつくんじゃないか?)
 そんな思いがよぎったのである。
 なぜなら、私は心の隅で《渇しても盗泉の水を飲まず》という生き方を「善」と認めているのだ。
 そういう高潔な生き方が、理屈抜きで正しいと思っているのだ。
 だから、もし私がノドの渇きを癒すため「盗泉」の水を飲もうとするなら、「善」であるという思いを否定しなくてはならない。
 そこで、
(倒れたら元も子もないのだ)
 という〝理屈〟がつくというわけである。
 《善に理屈なく、悪に理屈あり》
 そんなフレーズが浮かんだところで、私は鍬を置いて、ペットボトルを取りにクルマに向かったのである。

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