昨夕は、地元のお祭りで、子供たちによる空手の演舞を披露した。
幼児、小学生の中から希望者40名ほどで、半分以上が白帯。披露というより、祭りを賑わす〝お囃子〟の1つといったところか。参加した子供の家族だけでも、親兄弟に、爺ちゃん婆ちゃん、親戚を加えれば、見物客はちょとした数になるというわけである。
お祭りとあって、早い時間から一杯機嫌の人が目についた。
酒はいいものだ。
私は酒が大好きで、学生時代、アラブに留学したいと思ったが、回教の国は禁酒と知って、即座に断念したほどだ。
週刊誌記者時代は、朝まで盛り場をハシゴしていた。ボトルの1本2本は平気で、取材のない日は昼間からビヤホールで飲んでいた。
その酒を、いまは飲まなくなった。
理由はない。
訊かれれば、
「坊さんになったから」
と答えてはいるが、坊さんだからといって酒をやめる必要はない。飲酒、肉食OKである。
本音を言えば、
「酒は、もういいかな」
そんな心境になったのだ。
なぜそんな心境になったか、理由は自分でもよくわからないが、飲みたいだけ飲んで、遊びたいだけ遊んできて、この延長で人生を送るのかと思うと、何だかつまらなくなってきたのである。
で、やめてみて、どうだったか。
実に充実した日々である。
つき合いで飲食店には行くが、酔わないのだから、神経が弛緩することがない。
「酒は、張り詰めた神経を休める」
というのは、飲ベェの自己弁護であることがよくわかる。
たかだか私たちの日常生活のレベルにおいて、神経はどんなに張り詰めたところで、切れることはないのである。
発心――すなわち、何かを思い立って始めることも有意義だが、「何かをやめること」もまた、人生の刺激になることがわかった。
福岡市で、市職員の飲酒運転事故が報じられていた。
周知のように、同じ福岡市の職員が、飲酒運転で3児の命を奪うという痛ましい事件があって1年目のことである。
福岡市は、今回事故を起こした職員を懲戒免職にする方針だと言う。
酒を飲んで人生につまずくことはあっても、飲まないからといって、人生につまずくことはない。
人生の友として、酒は実にいいものだが、いいがゆえに人生を棒に振ることもある。
酒ハ人生ヲ懸ケテ飲ムベシ――。いま、そんな言葉が思い浮かんだ。
みなさん、心されたし。
酒ハ人生ヲ懸ケテ呑ムベシ
投稿日: