よく知られた中国の故事成語に『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』というのがある。
『臥薪』は、「薪(たきぎ)の上に寝る」という意味で、『嘗胆』は「胆(きも)を嘗める」という意味。
中国の春秋時代、越王勾践(こうせん)に父を討たれた呉王夫差(ふさ)は、復讐のため常に薪(たきぎ)の上に寝て、その痛さに復讐の志を奮い立たせ、ついに仇を報いた。
一方、敗れた勾践は、室内に胆(きも)を掛けてこれを嘗(な)め、その苦(にが)さで敗戦の恥辱を思い出してついに夫差を滅ぼした。
このことから『臥薪嘗胆』は、
「復讐のためにあらゆる苦労や悲しみに耐え忍ぶこと」
という意味になる。
一方、「釈迦語録」である『ダンマパダ』(法句経)は
『怨(うら)みに怨みをもって報いるならば、この世においては怨みのしずまることがない。しかし、怨まないことによって怨みはしずまる。これは、いにしえより続く真理である』
と教える。
私は若いころは『臥薪嘗胆』という言葉が好きだったが、このころは『怨まないことによって怨みはしずまる』という釈迦の言葉のほうがしっくりくる。
これはきっと、人間が円熟してきたのだろうと思っていたが、よくよく考えてみれば、そうでもないのだ。
《復讐の心》は「忘れやすい」がゆえに、薪の上に寝、苦い胆を嘗めて、自分を奮い立たせよと教える。
《怨みの心》は「忘れにくい」がゆえに、怨まないことによって怨みはしずまると教える。
つまり『臥薪嘗胆』を好むのは、「復讐心に乏しい人」ということになり、物事にこだわらないということになる。
私のように『怨まないことによって』を好む人間は、
「怨みを忘れにくい」
ということになる。
円熟どころか、加齢とともに意固地になってきていることの証明ではないだろうか。
昨日の夕刻、そんなことをつらつら考えながら仮眠を取っていると、グラグラと余震に飛び起きた。
ノンキに、故事やお釈迦さんのことを考えている場合ではないのだ。
「臥薪嘗胆」と「釈迦語録」
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