右肩から右肩甲骨にかけての鈍痛が日増しに激しくなり、先日、無駄と承知しつつ整骨院へ行った。
やっぱり無駄だった。
「ほら、頸椎の5番目ですね。狭くなっているでしょう」
中年の医者がレントゲンを私に見せながらノンキな声で言う。
「原因は何でしょうか?」
「首は頭という重いものを支えているんですからねぇ。どうしても無理がきますよ」
「どうしたら治りますか?」
「ま、鎮痛剤で様子を見て、リハビリですかね」
これで診察は終わり。
何の解決にもなっていないのだ。
私は鎮痛剤アレルギーがあるので、ほとんどの鎮痛剤は使えないが、ごくごく弱い効き目で、赤ちゃんにも使用できる鎮痛剤なら大丈夫なので、それをリクエストして処方してもらった。
だから、ちっとも効かない。
しょうがないから、痛みを抑えるという市販のジェル状の薬をベタベタ塗ると、いくぶんか和らぐような気がするが、実際はキィーボードを打つのさえ痛くて大変なのだ。
いまもこのブログを書きながら痛みに顔をしかめつつ、意地になってキィーボードを叩いている。
愚妻に痛みを訴えるが、
「困ったものねぇ」
人ごとである。
風呂に浸かっているか、枕を高くし、首を曲げるようにして仰向けに横になっていると少しは楽になるが、腕を動かすと、
「痛テテテテ」
となる。
しかも、こういうときに限って法務が忙しい。
経本を両手で開いて保持すると、右肩に負担がかかり、痛くてクラクラする。
葬儀のときは読経が終わったあと、導師控室にもどり、大急ぎで葬儀用の法衣を着替え、出棺に立ち合って先導するのだが、これが難儀なのだ。
法衣や袴を畳むのに片手ではできない。
しかも、こういう作業が私は大の苦手なのだ。
「痛テテテテ」
と顔をしかめながら大急ぎで法衣を畳むのだが、こうして無理をすると、そのあとが痛くて大変なのだ。
ご遺族はもちろん知るまいが、火葬場に向かうクルマのなかで、私は左手でハンドルを握り、
「痛テテテテ」
と声をあげているのである。
前回のブログで、物事は「解釈」によって意味は真逆になると書いた。
「難儀だ」
と受けとれば「苦」になるが、
「健康に留意せよ」
という天の警告だとすれば、
「何とありがたいことよ」
という感謝になると書いた。
この考えにいまも変わりはなく、
「痛テテテ」
と顔をしかめながら、これも意地になって天の警告に感謝しているだ。