さて、大晦日である。
朝風呂に浸かりながら、歯を磨いていて、ふと思い出した。
以前、飼っていたトイプードルの歯を、愚妻がよく磨いていた。
犬は嫌がって何とか逃れようとするが、
「ちょっと、動かないの!」
愚妻が責しつつ、がっちりと腕で押さえ、歯をギシギシ。
犬との攻防が続いたものだ。
犬にしてみれば、なぜ歯をギシギシやられるのかが理解できない。
いじめである。
理不尽な仕打ちである。
だが、虫歯予防であって、自分にとって意味のあることだと知れば、おとなしくギシギシされていただろう。
これと同じことが、私たちにもあるのではないか。
嫌なこと、理不尽なことに苦しめられると、何とか逃れようとしてもがく。
だがそれは、この嫌なこと理不尽なことが、じつは自分の人生に必要なものであると知らないことから来ているとしたらどうだろう。
甘受する。
いや、むしろ喜ぶべきことだと思うかもしれない。
いま、必要があってヴィクトール・フランクルに関する本を読んでいる。
フランクルは周知のように、アウシュビッツから生還したユダヤ人精神科医で、強制収容所での体験を記した『夜と霧』で世界的に有名になった人だが、彼はその体験を通して、
「どんな人生でも、生きる意味は必ずある」
というメッセージを発している。
私流に考えれば「犬の歯磨き」と同じで、
「どんな苦悩も、人生にとって意味は必ずある」
ということになるだろうか。
「生きていてく」とは「その意味を探し、見つけること」かもしれない。
となれば、私の目眩(めまい)にも意味があるということになる。
気分的に薄氷を踏むような気分の毎日だが、いまのところ再発はしていない。
ならば目眩は私の人生とって、どんな意味をもっていたのだろうか。
あれこれ物思いにふけっているうちに長湯してしまい、湯船を出たとたんにクラクラとした。
どうやら私の過日の目眩の意味は、
「余計なことを考えないで、目前のなすべきことをせよ」
という諭しであったのだろうと、合点した次第。
この一年、ブログを読んでいただき、感謝もうしあげます。
365日ごとに新たな年がめぐってきて、人生の仕切り直しができる。
残り少なくなった人生とはいえ、ありがたいことだ。
暦(こよみ)こそ人間の英知ではないかと思うのだ。