ロシアのウクライナ侵攻は批難囂々である。
それは当然としても、
「ロシアはウソつき」
「ロシアを信用してはならない」
と、テレビでコメンテーターが怒っていたが、これは愚か。
「騙したな!」
と、叫ぶのは、常にケンカに負けた側なのだ。
「裏切られた」
「後足で砂をかけられた」
という歯ぎしりも同じ。
「あんな人間とは思わなかった」
「どんな人間だと思っていたの?」
「信義に篤い人間だ思っていたんだ」
「お宅が勝手に思っただけじゃないの?」
つまり、「騙された私がバカだった」というのが正解。
残念だが、これが現実である。
『暗(ひそ)かに陳倉(ちんそう)に渡(わた)る』
という計略がある。
古代中国の武将として著名な韓信が実行した「騙し」の手法だ。
韓信は敵陣を攻めるに際して、山道の補修を大々的に始めた。
当然、敵は神経をとがらせる。
敵の注意を山道に引きつけておいて、韓信は密かに山脈を迂回。
陳倉から敵陣の関中を奇襲したのである。
「おのれ韓信、騙したな!」
敵将の章邯(しょうかん)は叫んだが、これは騙されたほうが愚か。
こうして関中は陥落する。
ウソや詭弁や騙しは、道徳的には批難されても、ケンカにおいては騙されたほうが間抜けというのは古今東西、普遍の事実。
ならば、道徳的に生きながら、かつ騙されないという生き方が成立するのだろうか。
無理である。
だから「騙す人より、騙される人になりなさい」と道徳では教える。
「騙されまい」と用心することと、「全幅の信頼を置くこと」とは矛盾を生じるため、道徳としては、そう教える以外にないということなのである。
戦争はもちろん、商取引や出世競争など、組織や人間の争いは歴史においてすべて、広義の意味でケンカと言っていいだろう。
争うことの本質を、「我執」と釈迦が喝破して2500年。
いまの時代を見たら何と言うだろう。
「人間、変わらんねぇ」
と言ったのでは「諸行無常」という自身の教えに反する。
「時々刻々と変わりつつある」
と言ったのでは、
「何がどう変わったの?」
とツッコミが入ることだろう。
釈迦の死後、56億7千万年後の世に弥勒菩薩が降りてきて、釈迦に代わって人々を救うとされる。
釈迦の入滅の年代については諸説あるが、いずれにしても弥勒菩薩が現れて私たちを救ってくれるまで、あと56億ン千万年かかることになる。
長い。
長すぎる。
弥勒菩薩さんは、いま何処。
「もったいぶらないで、来年あたり、ちょこっと姿を見せなはれ」
僧籍にある身ながら、不埒にも弥勒菩薩さんに言いたくなるのだ。