『降れば濡れ、濡るれば乾く袖の上を、雨とて厭う人ぞはかなき』
時宗の開祖・一遍上人の歌だ。
「雨に降られりゃ、服も濡れるがな。濡れても、そのうち乾くがな。そんなことより、濡れまいとして右往左往するのは愚かなこと。雨のときは濡れればええ」
あるがままを受け入れれば何でもないことだ、と言う。
一遍上人は「人間は等しく救われる」と説きながら諸国をめぐった遊行僧だ。
戦乱が続く鎌倉時代、末法思想に喘ぐ庶民に極楽往生を約束し、救済のお札と踊念仏によって爆発的な信者を得た。
開祖でありながら寺を建てず、生涯を諸国遊行で過ごした一遍上人は、気負うことなく飄々と「あるがままを受け容れよ」と説くのである。
ただし、「あるがままを受け入れる」とは、受け身のことを言うのではない。
手をこまねくことでも、投げやりになることでもない。
果敢な攻めなのだ。
水に落ちて溺れかけたときは、「あがくな」という。
沈むまいとしてもがけば浮力は得られず、溺れてしまうが、身体の力を抜いて沈むにまかせていれば、やがてフワリと浮いていく。
この「力を抜く」というのが受け身に見えて、実は「果敢な攻め」なのだ。
一遍上人の教えを私なりに咀嚼すると、そういうことになる。
人生の壁にぶつかったら、ノンキに鼻歌でも歌っていればよい。
「そのうち何とかなるさ」
と笑っていれば、本当になんとかなってしまうものだ。
人生の壁や悩みなど〝にわか雨〟のようなもので、いっときを辛抱していれば、やがて青空が広がってくる。
人生はこの繰り返しだと、古希まで生きてきて、私はつくづく思うのである。
一遍上人が説くように、雨に降られれば服も濡れる。
晴れてくれば、濡れた服も乾く。
人生は在(あ)るがまま、成るがまま。
じたばたすることはないのだ。