日日是耕日

俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

朝風呂と仏教語

投稿日:

 朝、風呂のなかで、ハチ蜜入りの紅茶とクラッカーを食べる。
 クラッカーに理由はない。
 先日までビスケットだったが、厭(あ)きただけである。
 ビスケットの前はかりんとうで、さらにその前は〝柿のタネ〟に凝っていた。
 おつまみの好みが変わるたびに、コーヒーになったり、日本茶になったり、紅茶になったり、ころころ変わっていく。
 何にするかは前夜、寝る前に決め、愚妻にリクエストしておくと、愚妻はブーブー言いながらもそれらを用意するというわけである。
 ところが今朝、自室でひと仕事して台所へ行ってみると、クラッカーが置いていない。
 愚妻の怠慢である。
 二階に上がり、愚妻の寝室に入って、
「おい、クラッカーがない!」
 と叱責したところ、
「ちょっと、起こさないでよ」
 愚妻がムクれ、駄犬の〝マック爺さん〟がもぞもぞとフトンから顔を出すと、同じように抗議の目で私を見上げる。
 愚かな飼い主と駄犬ではないか。
「もう8時だぞ」
「失礼ね。早い時間から目は醒めているわよ」
「ならば、なぜ起きぬ」
「ウトウトしているのが気持ちいいのよ」
 愚妻の主張を要約すると、朝日が差し始めるとベッド脇のカーテンを引き開け、朝日を浴びながら微睡(まどろ)のが至福の時なのだというのだ。
 まるで、勤労主婦が口にする「日曜日のセリフ」ではないか。
 と、このとき、唐突に『一水四見』という言葉が脳裏をよぎったのである。
『一水四見』とは仏教語で、
「同じ水であっても、立場が変わればまるで違って見える」
 という意味だ。
 水は、人間にとっては「飲み物」だが、天空から見下ろす天人にとっては「水晶の鏡」、魚にとっては「住みか」、そして強欲な生き方をする餓鬼には「膿血」に見えると教える。
 つまり、価値観に「絶対」はなく、それぞれの立場や性格、置かれている環境や境遇によって変わってくるというわけだ。
 愚妻にとって朝日を浴びる寝床は「至福」。
 一方、4時半起きを日課とする私は、深夜まで用事があるときなど不覚にも寝過ごすことがあり、寝床で浴びる朝日は、
(あっ、ヤバ!)
 至福どころか、大あわてである。
 朝日ひとつ取っても、夫婦でこうも価値観が違うのだ。
 人間同士、ツノを突き合わして生きるも当然だろうか。
 お互いが相手を思いやるとは、双方の価値観の相違を受け入れ、認め合うことだ。
 愚妻よりも、私の価値観のほうが立派であると確信はしているが、これからは愚妻の価値観も少しは認めなくてはなるまい。
 まさか、クラッカーから仏教語を思い浮かべようなど、思いもしなかった朝である。

-歳時記

Copyright© 日日是耕日 , 2024 All Rights Reserved.