朝、風呂のなかで、ハチ蜜入りの紅茶とクラッカーを食べる。
クラッカーに理由はない。
先日までビスケットだったが、厭(あ)きただけである。
ビスケットの前はかりんとうで、さらにその前は〝柿のタネ〟に凝っていた。
おつまみの好みが変わるたびに、コーヒーになったり、日本茶になったり、紅茶になったり、ころころ変わっていく。
何にするかは前夜、寝る前に決め、愚妻にリクエストしておくと、愚妻はブーブー言いながらもそれらを用意するというわけである。
ところが今朝、自室でひと仕事して台所へ行ってみると、クラッカーが置いていない。
愚妻の怠慢である。
二階に上がり、愚妻の寝室に入って、
「おい、クラッカーがない!」
と叱責したところ、
「ちょっと、起こさないでよ」
愚妻がムクれ、駄犬の〝マック爺さん〟がもぞもぞとフトンから顔を出すと、同じように抗議の目で私を見上げる。
愚かな飼い主と駄犬ではないか。
「もう8時だぞ」
「失礼ね。早い時間から目は醒めているわよ」
「ならば、なぜ起きぬ」
「ウトウトしているのが気持ちいいのよ」
愚妻の主張を要約すると、朝日が差し始めるとベッド脇のカーテンを引き開け、朝日を浴びながら微睡(まどろ)のが至福の時なのだというのだ。
まるで、勤労主婦が口にする「日曜日のセリフ」ではないか。
と、このとき、唐突に『一水四見』という言葉が脳裏をよぎったのである。
『一水四見』とは仏教語で、
「同じ水であっても、立場が変わればまるで違って見える」
という意味だ。
水は、人間にとっては「飲み物」だが、天空から見下ろす天人にとっては「水晶の鏡」、魚にとっては「住みか」、そして強欲な生き方をする餓鬼には「膿血」に見えると教える。
つまり、価値観に「絶対」はなく、それぞれの立場や性格、置かれている環境や境遇によって変わってくるというわけだ。
愚妻にとって朝日を浴びる寝床は「至福」。
一方、4時半起きを日課とする私は、深夜まで用事があるときなど不覚にも寝過ごすことがあり、寝床で浴びる朝日は、
(あっ、ヤバ!)
至福どころか、大あわてである。
朝日ひとつ取っても、夫婦でこうも価値観が違うのだ。
人間同士、ツノを突き合わして生きるも当然だろうか。
お互いが相手を思いやるとは、双方の価値観の相違を受け入れ、認め合うことだ。
愚妻よりも、私の価値観のほうが立派であると確信はしているが、これからは愚妻の価値観も少しは認めなくてはなるまい。
まさか、クラッカーから仏教語を思い浮かべようなど、思いもしなかった朝である。
朝風呂と仏教語
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