日日是耕日

俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

人生観はなぜ、コロリと変わるのか

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 今日は、二十四季節の一つ《雨水(うすい)》で、
「あたたかさに雪や氷がとけて、雨水として降りそそぐ日」
 とされる。
 二十四季節については、以前もこのブログで以下のように紹介した。
《二十四節気とは、太陰暦を使用していた時代に季節を表すものとして考え出され、1年を24等分して、その区切りに名前をつけた。立春、啓蟄(けいちつ)、春分、立夏、夏至、立秋などがそうで、これも字面を見ただけで季節感がすぐにわかる。》
 ちなみに二十四節気は、一月の《立春》から始まって《雨水》、《啓蟄(けいちつ)》、《春分》《清明(せいめい)》《 穀雨(こくう)》《立夏(りっか)》・・・と続いていって、十二月の《冬至》となる。
《雨水》は、昔から農耕の準備を始める目安とされてきたほか、この日に雛人形を飾りつけると良縁に恵まれるとされてきた。
 わが家には87歳の映芳爺さんと愚妻、小生、そして駄犬のマック爺さんの三人と一匹しかいないので、雛人形は関係ないが、娘さんがいらっしゃて雛人形を飾る予定のご家庭は、どうぞ、本日、雛人形を出してください。
 さて、《雨水》がわが家に関係するのは、「農耕の準備」である。
 一昨日、畑に行く予定であったが、
「今日は雨になるけん、またにする」
 と、畑指南役の映芳爺さんが断を下したので、畑を耕すのは延期になっている。
「今年は二種類のジャガイモを植える」
 と、映芳爺さんが張り切り、3月の初旬には植えるそうだから、来週には耕しに行かねばなるまい。
 だが、畑をしていていつも思うのだが、
「来年は」
 という言葉を、畑仲間の人たちは使う。
「今年は失敗したから、来年は早めにタネを播いて・・・」
 といった言い方をする。
 映芳爺さんだって、
「わしの命は、もう長いことないけんのう」
 と言いつつ、昨年暮には、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 と「来年」のこと言って張り切っているのである。
 しかしながら、「来年」という〝のんびりとした言葉〟を聞くと、セコセコと忙しくしている自分に、ハタと気づかされる。
(そうだ、忙しがっていてはいけないな)
 と反省しつつも、
(しかし)
 とも思うのだ。
 仏教は「明日をたのみにするな」と教えるからだ。
 いつ死ぬかも知れぬ身を生きる私たちは、
「《明日》という、あてにならないものを信じて生きてはならない」
 と仏法は説く。
 これが「一日一生」という考え方であり、親鸞は、
《明日ありと 思う心の徒桜(あだざくら) 夜半に嵐の吹かぬものかわ》
 と詠んだ。
 その一方で、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 という生き方もある。
 私はこれを「畑の人生観」と名づけた。
 あてにならない「明日」をあてにすることで、「今」をやりすごす生き方である。
 僧籍にある身としては、仏法の説くごとく、「明日をあてにしない生き方」であるべきだと思いつつも、畑を耕す身としては、
「トマトは失敗したけん、来年はちゃんと作らんにゃいけん」
 と思わなければ、やってはいけないのだ。
 そんなことを考えるていると、
「人生観にしたがって生きる」
 というは、実は間違いで、
「人生観とは、いま生きている、その生き方に一定の法則を後付けしたものではないか」
 という思いがよぎる。
 だから人生観は、境遇によってコロリと変わるのだ。

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