日日是耕日

俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

貧乏神は、いくら笑顔を見せても〝貧乏神〟

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 私は、いろんな人から、いろんな相談を持ちかけられる。
「◯◯しようと思ってるんだけど、うまくいくだろうか?」
「◯◯氏とトラブってるんだけど、会って話し合ったほうがいいだろうか?」
「△△をしたいんだけど、何かいい方法はないだろうか?」
 成否の見通しから方法論まで、いろんな相談をされる。
 私に知恵があるからではない。
 無責任だからだ。
 いや、無責任な立場に立つことができるからだ。
「無責任=ニュートラル」であり、だから相談事が客観的に判断できる。
「ある資産家が、金主になるから店をやってみないかって言うんですが、どう思います?」
 先日、水商売で働くZ君からこんな相談をされた。
「何でキミなんだ?」
「ボクのことを見込んでくれているんです」
「資金、くれるってかい?」
「いえ、月々の儲けから払えばいいって」
「やめとけば」
 私は即座に反対した。
 Z君は「見込んだ」という一語で、舞い上がっているに過ぎないのだ。
 その資産家とやらが、「この男」と本気で見込んでいるなら、「月々の返済」なんてケチなこと言わないで、「出世払い」にするだろう。
 Z君は利用されているのだが、当事者はそこに気がつかず、私のように「無責任=ニュートラル」な人間だからこそ、実相がよく見えるのである。
 私が週刊誌記者時代、ある名編集長が私にこんなことを言った。
「編集長の仕事ってのはね、いかに一読者になれるかってことなんだ。プロでありながら、いかにシロウトになれるか。勝負はここで決まるんだね」
 編集者はどうしても「編集者の目線」で記事をつくってしまう。
「それでは売れない」
 と、この名編集長は言ったのである。
 ところが、私もそうだが、何事も当事者になると、「希望的観測」が判断を狂わせる。
 竹馬に乗って坂道を走って下れば、転ぶに決まっているにもかかわらず、当事者は、
「でも、窪地を避ければ大丈夫じゃない?」
 希望的観測にすがる。
 転ぶのは〝必然〟なのである。
 このことから、私はいつも言うのだ。
「貧乏神は、いくらニコニコ笑っていても貧乏神なんだよ」
 しかるに世の多くの人は、貧乏神という実体を見ないで、ニコニコ笑顔に目を奪われる。
「貧乏神って言うけど、けっこう明るい顔してんじゃん」
 かくして、貧乏神と手をつなぐのである。

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