日日是耕日

俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

「鍛錬千日」という考え方

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 昨日は佐倉市民空手道大会があった。
 県内各市からの参加者も多く、幼児から一般まで五百名を超える選手が、9コートに分かれての熱戦だった。
 私の道場からも50名ほどエントリー。メダルをもらって喜ぶ者、泣いている者とさまざまたったが、勝っても負けても試合経験を糧(かて)に、精神的にたくましくなってくれれば、空手を習う意味も、試合に出る意味もあるだろ。
 そんなことを思いながら本部席で観戦していて、
《鍛錬千日、勝負一瞬》
 という、高校野球の名監督として知られる蔦文也氏の言葉を考えた。
 意味はいろいろ解釈できるだろう。
「一瞬の勝負のために、千日の苦しい練習をする」
 あるいは、
「千日の苦しい練習に耐えてこそ、一瞬の勝負に勝てる」
 いい言葉だが、仏道を学び始めて、また違った感慨をいだくようになった。
 すなわち、
《鍛錬千日、勝負〝千日〟》
「目的」のために「今の練習」があるのではなく、
「今の練習そのものが勝負である」
 ということだ。
 鍛錬する千日の、一瞬一瞬のすべてが勝負ではないか。
 将来に勝負があるのではなく、「今」にあると思うのである。
「勝負」という言葉は、「充足」あるいは「生きる」に置き換えてもよい。
 日々の練習、あるいは日々の人生において、いかに充実した一瞬を過ごすか。
 指導者の立場で言えば、日々の稽古をいかに充実したものにしていくかを考えなければなるまい。
 試合ももちろん大事だ。
 だが「ゴール」や「目的」にとらわれ、そこから「今」を考えることに私は抵抗を覚えるようになった。
 人生に「ゴール」はない。
 あるのは「今」という一瞬なのだ。
 そして「今」を積み重ねた総体を「人生」とするなら、《鍛錬千日、勝負〝千日〟》であるべきだはないか、と思うのである。

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