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俗にありて、煩悩を耕す365日

歳時記

男の値打ちは「やせガマン」

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 今日の午後、都内のホテルで、ぼったくりの元祖・影野臣直君とお茶を飲んだ。
 影野君は習知のように、『歌舞伎町ネゴシエーター』『刑務所で泣くヤツ、笑うヤツ』(いずれも河出書房新社)などの著書のほか、Vシネや各種若者向け雑誌に執筆している。「梅酒一杯15万円」をぼったくって刑務所へ行った。文字どおり「ぼったくりの帝王」である。経験を活かして、現在、「歌舞伎町ネゴシエーター」として活躍している。
 影野君と私は旧知で、たまに会ってあれこれ話をするのだが、見た目はヤバそうでも、彼のように礼儀正しく、また紳士はいないだろう。
 どの分野でもそうだが、頭角を現す男は、やはり違うということか。
 私のように50歳も半ばを過ぎると、人物の鑑定眼が厳しくなる。
 口やかましいのではなく、その反対で、とやかく言わなくなるのだ。デキが悪いと思えば、その人間に対しては無関心。「どうぞ、ご勝手に」で、説教はもちろん、アドバイスも手助もしない。
 アホな人間にいちいち関わっているヒマない、というわけである。
 そんな私に言わせば、見どころのある若者が少なくなった。
「よし、何とか力になってやろう」
 と思わせる人間が少なくなったのだ。
 それはなぜだろう、と考え、私なりに出した答えは、「自分中心主義」ということである。
 まず、自分にとって「損か得」を考える。
 もちろん誰しも自分が可愛いから、「損得」を考える。
 だが――自分で言うのも気が引けるが――私などは「損得を考えて行動する人間は卑しい」とする矜持がある。
 人を押しのけるということに対して、「それはみっともないことだ」という矜持がある。
 矜持と言えば聞こえがいいが、要するに「やせガマン」である。
 この「やせガマン」が、いまの若者には欠けているように思う。
 だから、可愛くない。
 いじらしくない。
「よし、力になってやろう」
 とはならないのである。
 うまく立ちまわっているつもりでも、しかるべき人間は見ているのだ。
 人ごとではない。
 自戒の意味を込めて、そう思うのである。
 影野君のような「見どころのある男」に会って、なんとなくそんなことを思った次第である。

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